globe3.ddns.netが注目した年は,1989年です.

この年は,中国民主化運動「天安門事件」と,ハンガリー「ヨーロッパ・ピクニック計 画」がありました.


----- ヨーロッパ・ピクニック計画 -----
東西ベルリンを裂いた壁が壊れていくのを,驚きと感動を持って,そのニュースを見ました.
その流れのきっかけは「パン・ヨーロッパ・ピクニック」でした.


[-- 流れ-- ]
1956年 10月23日
ハンガリー民主化運動(地元では動乱とは示しません)は、ソビエトの介入で潰される。
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http://www.jpnhun.org/hungary/ より
9世紀末にウラルかアルタイ山脈あたりに起源をもつ遊牧民の一部族マジャール人が、
ドナウ流域のカルパチア地方に進出し、ハンガリー国家を形成。

以来、この国は蒙古、トルコ、オーストリアの支配を経験し、
20世紀に入ってからも、ナチスドイツやソ連と、常に列強の圧政や干渉にさらされてきました。

ハンガリーの歴史は、自由と独立を求める民族の闘いの歴史でもあります。

1956年の民族蜂起がソ連の武力介入で制圧された後も、
ハンガリーは社会主義体制の枠内で政治の民主化や自由競争原理の導入による経済改革など、
独自の民主化路線を進めてきました。
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1989年  8月19日
オーストリア=ハンガリー国境,シュプロンで「パン・ヨーロッパ・ピクニック」開催

1989年 11月 9日 東西ドイツの壁 崩壊

1990年 ドイツ統一

1991年 ソビエト社会主義国連邦の崩壊



[-- 1989年 ハンガリー --]
1988年のハンガリー新政権
ネーメト ミクローシュ(首相),
ニエルシュ エディエ,
ポジュガイ イムレ(政治改革相),
オルグート イフシュタン(内相),

民主化に積極的に取り組み,1988年4月,個人企業や国外旅行を認め,言論統制の解除を行う.


1989年  2月12日
ネーメト(首相)とゴルバチョフが会談

オーストリア=ハンガリー国境の鉄条網撤去は,5月 2日を目標としていた.
ポジュガイ イムレは,この撤去がハンガリー国内のことだけに留まらず,大きな意味を持つことを認識していた.

1989年当時の東ドイツ,社会主義統一党書記長のエーリッヒ ホーネッカーは,
「(必要とされるならば)100年は壁が残る」との主旨を発言していた.

1989年当時までに.東西ドイツ国境を越えようとした,588人が殺されていた.
(旧東独国家保安省(シュタージ)が関与していた)


1989年 3月 4日
ネーメトとゴルバチョフが130分に及ぶ会談を行う.
当時はペレストロイカも低迷していた.

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ペレストロイカ
1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動。ロシア語で「改革」を意味する。

共産党による一党独裁政権が続いたために政治腐敗が進んだ政権を立て直す
ため、1985年書記長に就任したゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進め
られたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソ連の政権を民主的な方向に改善
していった。

結果として、高まる民主化圧力により共産主義体制は破綻し、ソ連自体
は崩壊するという結末に終わった。現在では、共産圏の民主化を進めるととも
に冷戦を終結させた政策として高く評価されている。
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ゴルバチョフの側に居た,ゲオルギ シャフナーザーロフの手記によれば,
1984年には,東ヨーロッパ社会主義の破局を予想する文書があった.
その文書には,1990年にソ連が主導権を失うと指摘していた.

1985年 ゴルバチョフは書記長就任時に東欧諸国首脳と会談をした.東欧諸国の改革を見ていたのだろう.
3月4日,この日の会談はネーメトが,ハンガリーが今後に行う改革についてゴルバチョフに伝えたのだろう.

当時は東欧諸国には、ソビエト軍の戦車が数多くあり、民主化運動を押さえるために出動することが考えられた。


1985年 5月 2日
ハンガリー国境警備隊が,オーストリア=ハンガリー国境にある高電圧鉄条網の撤去を行う.
鉄条網は無くなっても国境警備隊の警備が厳しく、脱出は容易ではなかった.


1985年 5月
鉄条網撤去を知った多くの東ドイツ市民がバカンスとして,
ハンガリー バラトン湖のバカンス地などに東ドイツ人が集中する.


1985年 5月 及び 6月 16日
ハンガリーの民主化を進めていた最大組織,民主フォーラム(Hungarian Democratic Forum)の幹部,
フィリップ マリアとオーストリアのハプスブルグ家当主 オットー ハプスブルグが,
オーストリア=ハンガリー国境の扉をあけて,自由に行き来を行い,ヨーロッパ統合の集会を計画する.

民主フォーラム デブレツェン支部は,ショプロン支部に,1989年8月19日に,
オーストリア=ハンガリー国境で「国境のないひとつのヨーロッパ」という考えを広める
集会の開催を伝える.

この「ヨーロッパ・ピクニック計画」は、
民主フォーラム(MDF), 自由民主同盟(SZDSZ), 青年民主同盟(FIDESZ), 独立小地主党(FKgP)の
民主化を目指す4つのグループが協力し組織された.

初めは集会として進められた「ピクニック」の企画は,多くの地域の人々が集まり,
欧州統合について語り合う会議「ヨーロッパ・ピクニック」となる.

場所はシュプロンを選ぶ.
ショプロンは,ハンガリー領土がオーストリア領土に大きく張り出した場所であり,
全ての道が国境に通じている.
また,国境周辺には森や林が多くあり,脱出した人が隠れる場所がたくさんある.

開催者は,ショプロン郊外の戦後40年開かれることのなかった国境の門に注目する.
この門を開け,国境を自由に行き来し,集会を行うことを計画する.

この門を開けるよう援助を求められたポジュガイ イムレ(政治改革相)は,
集会を装いつつ、白昼に東ドイツ市民を脱走させ、鉄のカーテンを無意味にできると考え、
内務省や国境警備隊にシュプロン国境の門を一定時間開ける要請を出す.

このために,内務省などの各機関がシュプロンへ赴き,事態の確認をしている.

集会の主催者は,東ドイツ人が多く集まるキャンプやホテルにビラなどを張り,
「ピクニック」に行けば西に出られると伝えた.


1989年 7月12日
アメリカ ブッシュ大統領がハンガリーを訪問する.


1989年 8月14日から
ブダペスト西ドイツ大使館に多くの東ドイツ人が出国を求めて集まる


1989年 8月18日?
エゴン クレンツ(東ドイツ政治局)が国民の逃亡に関する報告書をホーネッカーに手渡すが,
考慮することはなかった.この後,ホーネッカーは体調不良となり入院する.


1989年 8月19日 15時
パン・ヨーロッパ・ピクニック開催

15,000〜20,000人が参加する.

当時のブダペストには,軍関係者などの共産主義勢力が健在だったため,
ハップスブルグやポジュガイ イムレは,集会の場には代理人を送る.

ハンガリー政府の許可を得て行われた象徴的国境開放に,
シュプロンに身を潜めていた1,000人を超える東ドイツ人が,国境の門を目指し,
国境を越え西側に脱出する.

パン・ヨーロッパ・ピクニックは,会議と脱出劇の二面をみせる.
地元カメラマンの カルパティ ギョルギ や タマーシュ ロベンヴァインが,脱出する東ドイツの人々をカメラに納める.

http://portal.sopron.hu/upload/varos/paneu-piknik/index_uk.htm


1989年 8月22日
ハンガリー国内の東ドイツ人強制送還要請を退け,東ドイツ人を合法的にハンガリーから出国させることを,
ネーメト ミクローシュや主な閣僚は決定する.

この時は,滞在許可期限の切れた,およそ6万人の東ドイツ人がブダペストのズグリゲット教会などに滞在していた.
グリーン・ボーダー(緑の国境:ショプロン郊外の森)を乗り越えようとする多くの東ドイツ人は,
ハンガリー国境警備隊に身柄を確保された後に,同教会などへ行くように伝えられる.

コズマ イレム神父が人々を受け入れ,西ドイツ大使館員が出国に必要な西ドイツのパスポートを作り,配給する.


1989年 8月20日 前後
ネーメト ミクローシュ(首相)とホルン ジュラ(外相)が西ドイツアメリカ空軍基地を経由し
て西ドイツのギーニッヒム迎賓館へ向かい,
西ドイツ ヘルムート コール(首相),ハンス ゲートリッヒ ゲンシャー(外相)
と会談を行い,東ドイツ人を西ドイツへ出国させることを告げる.


1989年 8月31日
ホルン ジュラ(外相)が東ドイツ オスカー フィッシャー(外相)と会談
東ドイツ人の出国決定を告げる.


1989年 9月10日
ハンガリー国営テレビ A HETに出演したホルン ジュラ(外相)が,
「0時をもって東ドイツ人は,どこへでも行ける」と発表する.

この時,ソビエトが判断を下すという苦しい立場に追い込まれないように出国の発表は,
事前にソビエトにはいっさい知らしていない.


1989年 9月11日 午前0時
オーストリア=ハンガリー国境が開かれる.
西ドイツに東ドイツの人々を受け入れる場所がもうけられる.

10月までに7万人が出国する.


1989年 10月 7日
東ドイツ建国40周年


1989年 10月17日
ホーネッカーが解任される.クレンツが書記長となる.


東ドイツ各地で数百万人規模の市民デモが起る.


1989年 11月 9日 朝
ゲルハルト ラウター(東ドイツ内務省)などの3人が,11月10日に有効となる永久出国に伴う政令案に, (2021/10/19氏名訂正)
出国はできても入国ができないと定めるこの政令案に,国外旅行も含まれるように訂正を行う.

議会は,内政の責任問題などで紛糾していたために,この訂正内容は吟味されずに承認される.

1989年11月9日 12時
当中央委員会に政令案が提出される。 旅行の目的を問わず、誰でも国外旅行が許可されるとの内容だった。


1989年 11月 9日 17:50
報道官ギュンター シャボウスキーが記者会見場に向かうまでの 5分間でもこの訂正内容は吟味されない. (2021/10/19 氏名訂正)


1989年 11月 9日 18:00以後
東ドイツ政府 定例記者会見

会見終了7分前,イタリアANSA通信、リッカルド エールマンが質問を行う. (2021/10/19 以下追記)

「数日前に発表された旅行に関する政令案は、大きな過ちだったのでは?」

シャボウスキーの言葉
「私はあの瞬間、どっと汗をかきました. しまった,旅行法について,話しをすることになっていたんだと思ったんです」

シャボウスキー報道官は、旅行法についての発表を忘れていた.
この日提出されたばかりの,新しい旅行法案を読み上げる.

シャボウスキーの発表
「外国への私的な旅行の申請は,目的や親戚関係など明記せずとも許可される」

記者の質問
「いつ発効ですか?」

シャボウスキーの発言
「私の知る限りでは"即座に"です」

この旅行法案は,翌日に発効の予定だった. (2021/10/19 ここまで追記)


記者会見の最後に,東ドイツ人はどこへでも行ける内容の政令を発表する.

この時の録画画像を見ると、ギュンター シャボウスキーは憮然とし,ただ単に書類を読んでいる. (2021/10/19 氏名訂正)
記者の質問に答えるだけの理解をしていないように見られる.

記者たちは,この発表を理解しようとしている,とそのあと,この政令の内容に気づき,
あわただしく動き出している.そしてこの記者会見はニュースとなり,世界を駆ける.

1989年11月9日 20:35 (2021/10/19 以下追記)
ボルンホルム検問所には、記者会見のニュースを見た多くの人々が訪れた.

検問所パスポート審査官 ハラルド イエーガー
「人がどっと押し寄せました」

ボルンホルム検問所には,21時ころには数万人の人々が押し寄せた.

検問所パスポート審査官 ハラルド イエーガー
「危険だったのはこちらの誰かがはずみで銃を売ってしまうことでした. そうしたら流血の大惨事になる. それだけは避けたかった」

ハラルド イエーガーは検問なしで出国させるように命じた.
「みんな出してやれ」

1989年 11月9日 23:30
ボルンホルム検問所のゲートが開く (2021/10/19 ここまで追記)

1989年 11月 9日 23:00以後
東西ドイツの国境が開く.
この後,東ドイツの政権は全てが入れ替わる.



===== 2004年の ハンガリー =====
2004年 5月 1日 EU加盟
2008年迄にはユーロ導入

2004年は国交回復して45年目,相互に大使館が設置されて40年目


===== メルケルの言葉 =====
2014年11月9日 ベルリンの壁崩壊記念式典にて (壁崩壊から25周年)

「世界はより良い方向へ、変えることができます
ベルリンの壁の崩壊がそれを教えてくれました

将来、もっと高い壁が出現しても壊せるはずです
壁の崩壊は、夢が叶うことを教えてくれました

たとえ、ハードルが高くても何もしないのはいけません
この思いを世界の人々と分かち合いたいのです」